そあれといっしょ

日記を書きます

滅鬼雑記

 

全然間に合わなくてウケますね。

自分で定めたルールを守れなかったときに別にいいかって思ってしまったらその瞬間から人間は腐敗していくので気を付けなければなりません。

そあれです。

 

まあ私の場合日頃の言動のせいで日記の更新が途絶えると生命を案じられてしまうというのもあります。以前一週間くらいツイートしなかったらちゃんと心配されてしまったことがありました。

ただ私は贅沢な死にたがりなので死に方は選びたいんです。身も心もきれいな人間のまま死にたい。腐敗も老化も耐えられない。

今、今生命を止めてくれ。頑張るな心臓ーーー

 

そういうわけで死ぬときはちゃんと準備して死ぬので蒸発みたいなことにはならないと思います。心配しないでね。

そもそも心配させるような言動をやめろって話ですがネガティブが固執されてもうアイデンティティみたいになっているので無理なんです。どうすることもできない。

無理を通せたらそれはもう無理じゃないので。

いかに無理を通さなければならないような状況を回避するかが人生だって誰かが言っていたような、いや言ってなかったかもしれません。

 

 

さて、私は別に人生に絶望しているわけでも無気力なわけでもないです。

やりたいことだってあります。

所ジョージになりたいし天才てれびくんに出たいし、ヒステリックブルーを聴くときにどうしてこんなことに。。って思うのも辞めたいです。

ja.wikipedia.org

 

ただ、やりたいことがあるということと死にたいということは同居します。

最近では『死にたいけどトッポッキは食べたい』ってベストセラーもありましたが、死にたいと思うこと事態は (あれ食べたいな) くらいの感情でしかないんです。心の痛みこそ本物だけど特別なことでは全くない。

誰しもが偶然死を選ばなかったから生きているだけの話。

なので以前普通の人は死にたいと思わないので死にたいと思った時点で鬱です、みたいな言説を目にしたときは不思議な感情になってしまいました。

 

こんなにも身近で避けられないものである死を遠ざけようとする意味も分かりませんし、人間もっと死に寛容であれと思います。

現状どうすることもできない重病者の安楽死でもあれだけ議論されているように、現代では生の強要の方は問題になりづらいんです。

自死を否定する人が生について考えたうえで言っているのかは私にはわかりませんが死を問題にするなら同時に生の問題にも触れるべきでしょうし、やっぱり死だけが悪く言われているともやもやしますね。

最近のインターネットでは ""生きててえらい"" という我慢して仕方なく生きている人間同士の生暖かい悲哀をよく見ますが、これが ""生きてるのがそんなに偉いか"" に変化する瞬間も近い気がします。

 

脱線してしまいましたがやりたいことあっても死にたくなるんだから無理せずにということですね。楽しいことが負担になったらいよいよなので〇〇したいから死ねないみたいなのも良くないです。

結局私たちは停滞しながら緩やかに死んでいくことしかできないので一部分切り取っていい感じになったら相当いい感じだと思いましょう。

 ""あきらめが肝心"" が世界一の至言らしいです。

努力しなくていいわけではないですけど。

 

 

やっっっと更新できる。

いやほんとハチャメチャに忙しくて砂漠の砂みたいな肌にハイパー眼精疲労、常在菌が死滅したかのような胃腸の不調の中なんとか書き上げた虚ろです。

私のする死の話の7割くらいは時間もないし言えることもないからこれでいいかという妥協で塗り固められているので本当に無為な文章なんですよね。

後から自分で確認するために書いている日記にこんな無味乾燥を残してどうするんだという後悔の念も、、ないわ。

うん。日記にそんな万感の思いとかなかったです。

このゆるゆるをインターネットに放逐することで何かが弛緩されて世界の重要な部分のバランスが奇跡的に保たれていると考えながら、これからも投棄していこうと思います。

私は地母神(アースマザー)なので。

 

それでは、アースマザーでした。